SAKAGUCHI KEN FACTOY,inc. 2-14-10 Misyuku,Setagaya-ku,Tokyo,Japan 154-0005 TEL:03-3424-2304 FAX:03-3424-2341
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011◆『L・S・B』&『KEEP the LOFT』


  1994年『LUNA SEA』は'93-'94にかけて、全国をTour『The Garden Of Sinners1993−94』で廻り、、2月だったっけ、、横浜アリ−ナでファイナルを迎えることになっていたが、、。前年のTourファイナル武道館でも、台風の直撃をくらって公演延期をしてたが、、、
  また!またっ!何年かぶりの、、こんどは大雪をくらった!あー歩けない、高速道路は通行止め。新幹線も止まっちゃうくらいの、大雪だ!会場もソ−ルドアウトしてるにもかかわらず、、、オ−ディエンスは、まだ、まだ、、集まんないわ。開演は2〜3時間遅れでスタ−トするも、、怒濤の忙しさにも負けずに、またひとまわりも、ふたまわりも大きくなって帰ってきた5人のパフォ−マンスを、そこに観た。
  なんだか、天候まで振り回せる勢いの、豪雨も!嵐も!吹雪きも!強風も!LIVEに御招待しちゃうBANDだなぁ、、って。その後も、だけど、、、。
  ツア−ファイナルから、ちょっとオフがあったのか、ちょくちょく J と近所の呑み屋でプライベ−トで会う機会が増えた。 J はオフの間、LONDONに旅行してたみてぇーで、何か、こう、印象も『LUNA SEA』の仕事の現場で会う時以上に、強烈にPUNKの鼓動をビシビシ感じるようになった。で、新しい『LUNA SEA』のデモトラックスを何曲か聴かせてもらったら、、この中で『ROSIER』って曲は、なんか、 J の遺書とも思えるギリギリの叫びを、、そこで感じた。「絶対!コレが今年の『LUNA SEA』から撃ち出す弾丸だぁ!絶対!シングル!」って言って。いよいよ、ヤツラが引き金を引く!
  ア−トワ−クも綺麗、ビュ−テフルモ−ド、、、なんて次元じゃない。ホンモノのROCK BANDなんだから!いつものエネルギッシュなステ−ジそのまま。撮影スタジオが戦場になる!って、くらいの意気込みで、シュ−ティングした。『LUNA SEA』普段のLIVEそのまま。汗をダラダラ流してスチ−ル・カメラに向かい、戦った。カメラマンM.HASUIも、普段とは違う。いつも彼が発する撮影中のファッションや空気感じゃない!。なんと、裸足でタオルを頭に巻いて、メンバ−と一緒になって汗をかき、スタジオをカメラかかえて、走った!撮った!!!
  『ROSIER』のジャケットも頭の中には曲を聴かせてもらってた時に出てきた棺桶と、バラ。棺のイメ−ジにピシャリ!ハマるように、プラスチック・ケ−スを付けるといった、特殊仕様のパッケ−ジ!!!ファンには、プレゼントできることになったし。この時の5人のフォトセッションがあまりにも、素晴らしく、B1・POSTERの5枚セットもプレゼントできた!!!!!ほんと、レコ−ドメ−カ−の皆さんに、オレと『LUNA SEA』5人のワガママを聞いてもらって、感謝の気持ちでいっぱいだった。おまけにジャケットでつくった棺桶は、その後の『LUNA SEA MUSEUM』で展示されるまで、オレの家のリビングでテ−ブルとして活躍していただいた。(笑)。
  『ROSIER』はオリコン初登場3位(これは覚えてる!ゼロからいっせーので、一緒に歩きはじめて、その世間の反響が広がってきて、メチャ!嬉しかったから、、、)。続く『TRUE BLUE』からアルバム『MOTHER』で、日本を代表するROCK BAND=『LUNA SEA』になる予感というか、確信!をみんなで獲得した。アルバム『MOTHER』は5人のバンドサウンドをうまく表現できたアルバムだ。五人五様が持ち寄った30〜50曲近い楽曲のタマゴから、究極のROCK BAND=『LUNA SEA』としての楽曲を産み落とす、、、そんな、、、力強い、、想像力の世界の、絶妙なパワ−ゲ−ムは、この『LUNA SEA』が初めてだったから、、、たいてい楽曲のコンポ−ザ−って1人とか2人が当たり前だと、思ってたからね。プライベ−トでも、よく酒をかわすようになってから、ますます、『LUNA SEA』の世界観がオレに急激にせまって、ア−トワ−クもカメラマンの『BRUNO DYAN』と貪欲に、そのスタイル!完成度をどんどんと高めていったのだ。
  この年、オレが20代のそのほとんどを、そこ!で過ごし、大切なアニキ達や同志を得たライブハウス新宿LOFTが、新宿の再開発で地上げにあって、西新宿で営業することが困難だって話が持ち上がった。、、、、で、、、当時の店長、小林シゲさんから、『アナ−キ−』のシゲルと『ARB』のKEITH、『G.D.FLICKERS』のJOEなんかが呼ばれ、『KEEP the LOFT』ってイベントやって、多くのオ−ディエンスの賛同と署名をもらおうってことになった。場所は日比谷の野音。新宿LOFTで育っていった数多くのROCK BANDに出演交渉をして、スケジュ−ルが可能な限り出演してもらうべく、このプロジェクトはスタ−トした。ここで、カタログデザインの依頼はもちろん、知り合いへの参加の呼びかけを依頼された。
  オレも声はかけてみるが、『BUCK-TICK』『THE STREET BEATS』etc.は、スケジュ−ル上、難しく。『LUNA SEA』の J とSUGIZOはOKってことだった。そこで、この1日だけのセッション・バンドがいっぱい出来たのだが、、特に面白かったのは、『アナ−キ−』のシゲルをボ−カルに、ギタ−『アナ−キ−』のマリ、ギタ−『THE BLUE HEARTS』のマ−シ−、ドラム『アナ−キ−』のコバン。で、ベ−スが『LUNA SEA』から J 。
  なんとも、不思議なユニットの出来上がりだった。全員オレと知り合い、だけど、、ちょっと、まさか!このメンツで『アナ−キ−』の曲をやるとは、、、誰が想像するだろうかぁ。あまりにも、世代もファン層も、違いすぎてねぇかぁ!って。でも、面白かった。マ−シ−も、 J も『アナ−キ−』のトレ−ドマ−ク=国鉄服を着て、、発売禁止になった曲"東京・イズ・バ−ニング"をやった。『〜何が日本の●●だ!なんにもしねぇで、ふざけんなぁ!』って!面白いくらいの怒り!を日比谷野音のステ−ジに叩き付けた!
  打ち上げで西新宿の新宿LOFTに戻って、またまた永遠に朝まで呑み会があったのだけど、、いつも以上に幅広い世代の、ロックを愛し続けるア−ティスト達の、熱い、深い交流が!セッションが!永遠に続いたのだ。、、、あー楽しかったし!これで、ずぅーと!ここ!!西新宿で!!!ライブハウス新宿LOFTは、このままのイメ−ジでやってけるイメ−ジの夢を見てた。最年少だった J も御機嫌な表情を浮かべていた。  また、オレたち世代でも、これまでで史上最大のイベント!『L・S・B』をこの年にやった。『BUCK-TICK』+『SOFT BALLET』+『LUNA SEA』をメインにさまざまなバンドが参加して全国5カ所をゴ−ラウンド!しちゃうイベント!
  『THE MAD CAPSULE MARKET'S』はアルバム『MIX-ISM』のレコ−ディングでLONDONへ。
  この年の夏、『BUCK-TICK』はまず、野外イベント「SHAPELESS」をコニファーフォレストにて開催した。『THE MAD CAPSULE MARKETS』+『SOFT BALLET』。今まで観たイベントの中でも、随分と印象深いイベントになった。ア−ティスト同志の繋がり、、、ってゆうよりも、クライアントやスポンサ−の運営イメ−ジが先行しちゃうような、メディア・サイドが作っちゃった、、、なんの脈略のない組み合わせの、(オ−ディエンスが一向に、一体化しない、、)、ハイ!バンド・ブ−ムですッ!ハイ!毎年恒例のイベントですッ!みたいな、あんまり面白くないイベントとは、一線を引く内容。繋がり深いア−ティスト同志が!主導権を握って!!!運営した、、ひさびさの内容だった。20,000人くらいのオ−ディエンスは、途中、席を立つこともなくフィナ−レまで最高!!!!に盛り上がった。
  ここ最近のイベントでは、興味ないバンドが出て来たら、、、なんか、、、ドッ!チラケエ−みたいな会場が、嫌で!嫌で!嫌で!嫌で!会場の外出て、友達とダベッてたほうが、いいじゃん!なんてぇ、なんか、、
オ−ディエンスの気持ちも分かるなぁ!っていつも思ってたから、、、この日はホント、こんなこともなく、、、夢のロ−ラ−コスタ−乗っかっちゃった感じで、良かった!デス!DEATH!ハイ!
  オレはリハ−サル中に、あの広々としたコニファーフォレストの客席でサッカ−ボ−ル蹴って遊んでた!、、富士の空気が気持ち良くて、ビ−ルもうまくて!ウン。これも、、、楽しかった、、、し。フィナ−レを終えたら、富士から夜中、東京に帰って来てからも、みんなで朝まで呑んでハシャイダのが、、ウン。これも、、、楽しかった、、もちろん!
  で、すぐさま。『L・S・B』!!なんか、最初のスタッフ・ミ−ティングからワクワクした。全国に!あの!コニファーフォレストの素晴らしいライブ・イベントがさらに飛び火しちゃうワッ!!オレはもちろんグラフィックのスタッフとして参加した。参加バンドが続々と決まってく中、タイトル!が、、、思わず、、ニヤリ!と、した。あー!『BUCK-TICK』で良かった!バンド名!ヒャリ〜ッ。『DOCK-TICK』で→『L・S・D』じゃ、洒落にもなんねぇ!(すまん、スベッた!)
  大阪城ホ−ルでは、『THE MAD CAPSULE MARKET'S』『THE YELLOW MONKEY』『LUNA SEA』『SOFT BALLET』『BUCK-TICK』!!!!!
今じゃ考えられないこんな顔ぶれだった。本番前からビ−ルもグビグビやって、いつも、別々の現場で合う仲間を、一同の楽屋で会した!なんて、イイ空気とリズムのバック・ステ−ジなんだろう、、、って。アリ−ナで観たんだけど、、初めて見る『THE MAD CAPSULE MARKET'S』の音圧!その迫力に!耳をふさぐ若い女の子には、ちょっぴり笑ってしまったり、、、『LUNA SEA』や『THE YELLOW MONKEY』が先輩に負けないエネルギッシュなステ−ジ・パフォ−マンスで客席に強烈にアピ−ルしていた。ただ言えるコトは、その日の出演バンドすべてが、いつものLIVEとは違って、輝いて見えた。
  あの!コニファーフォレストよりも、さらに進化して出演者も普段以上にエキサイトしてる様を、見るコトができた。、、、、、で。フィナ−レの『BUCK-TICK』の時に、またまた、ゲスト席に見なれた悪友が!そこに居るでは、ないか!
  『X JAPAN』のhide。「なんで、今。大阪に居るのぅ?!」でぇー、hide。「今日、L.A.から東京に戻って来たんだぁ!THE MAD CAPSULE MARKET'S!!!どーしても観たくって。でー高速飛ばして!猛烈ダッシュ!してきたら、、あーあっーBUCK-TICKしッかッ!見れないんだもん。、、、X JAPANで、出れば良かったぁ!クヤシィッ〜!!日本でこんな素敵なロック・イベントが出来たのにぃ、、、、」って、本気でクヤシがってる。「キャハッハハハ−」hideったら、ほんと、、、エネルギッシュ!なROCK野郎だ!L.A.から東京に戻って、よくもその、長旅の疲れもどこかに吹っ飛ばし!よく、クルマで高速飛ばしてやってくるワッ!今日のフィナ−レ打ち上げは、、、また、また、歴史に残る大阪の夜になるぞぅ!!!!って思ってたら、、、もう!凄まじく楽しいものに、なった。
  こんな一同にオレの仕事仲間と会して呑む酒は、、まず、あり得ないし、、、、、、チョ〜!チョ〜!チョ〜!御機嫌で!誰もが、一ケ所のテ−ブルに留まることなく、その笑い声や、ハシャギ声はどんどんと無限大に広がっていった。初めて合う同志も、気さくに打ち解けていった。もう、それは、それは、一軒とか、一夜とかではおさまりきれないくらいの、、打ち上げ!になった。、、、、『X JAPAN』のhideも久々の同志との再開で打ち上げ会場中をピョンピョンと子供のようにグラス片手にはしゃぎ回ってる。『THE YELLOW MONKEY』のメンバ−を紹介して歩いたり、、、IMAIやフジマキくんと、なにやら音楽話してる、、、もう、楽しい話、のヒットパレ−ドだった。オレもいっぱい喋りすぎて、もう、、書いてたら、、キリないくらい、、、(苦笑)
  宿泊先のホテル帰っても、部屋呑みとかで、、オレ達の泊まったフロア−は、、とてもホテルの廊下とは思えないくらい、、、笑い声や、廊下をバタバタ走り回る音が、、チェックアウトの時間まで、、、、延々と続いてた思い出がある。(オレ達以外の宿泊客がいなかったことを、、、ここに!お祈り!いたします!)、、、、、また、こんなイベントが出来たらなぁ!、、、って『L・S・B』は今でも忘れられない。また、あのメンツで、、、やれませんか?やれませんよ、ね。(苦笑、、、)
012◆MADと、映像にひたすら走った1994to1995


  『THE MAD CAPSULE MARKET'S』がリリ−スしたアルバム『PARK』のART WORKS。パッケ−ジの外装は、まるで遠い国から来た郵便物のような、シンプルなものに仕上げて。逆にブックレットのインナ−には、、、、、、、、、コンポ−ザ−のタケシやKYONO、ISHIGAKI、MOTOKATSUが楽曲を誕生させてきた背景には、それぞれの楽曲と一緒に「絵」がボンヤリでも出てきてたはずっ!、、、
  だから、歌詞それぞれに対して、まるでシングル盤のART WORKSのように、1曲1曲ごとに掘り下げて、、、、各コンポ−ザ−と向かいあって、、、その「絵」を具現化する作業に打ち込んだ!!、、、、たとえれば1年くらいかけて、完成するアルバムの制作過程を、、、、ART WORKSは1カ月で!って、猛然とカタチにしていった。
  オレなんかの中でも、難産だけど、、健康というよりも、暴れん坊で!とてつもない怪物君たちにピッタリのART WORKSが生まれていった。彼らも、それまで以上に楽曲を「絵」として伝える難しさを、一緒に体現できたんじゃないかなー。入稿を終えた夜は、ほんとに、吐き出しちゃった安堵感からか24時間以上ぐっすりベットの中に包まれてた思い出が、今でも蘇る、、、、、それほど、達成感のあった仕事だった。
  その後、すぐさま1994年の暮れから1995年のアタマにかけて『THE MAD CAPSULE MARKET'S』のクリップ集をリリ−スすることになった。『HAB'IT』『LIMIT』『IN SURFACE NOISE』『パラサイト』『公園へあと少し』他の撮影、監督を、後先も考えず、、オレは手をあげた。はじめて!!!、、、5曲以上を一度期!しかも3〜4カ月で、完成にこぎ着けられるのか!?
  みんなの不安も、もちろん感じたが、、、アルバム『PARK』のART WORKSで、あれだけ楽曲の持ち合わせる「絵」をメンバ−と一緒になって生み出したのだから、、、自信もあった!!!!クリップ監督の仕事にも、興味があったし、音楽チャンネルで見かけるクリップには、なんのおもしろ味も、感じてなくって、、、、、。確実に自信が、あった!カメラマンも含めスタッフ決めからだ!
  まずは、グラフィックの上で、スチ−ルカメラマンから、MADのTOURにもずっと同行してる『MASA』。そして『BRUNO DYAN』。映像からは、オレがジャケットやった頭脳警察ライブの監督をしてた『安田潤二』。アナ−キ−の藤沼伸一&BOOWYの氷室京介を主演にしたインディ−ズ・ム−ビ−を監督した『諸沢利彦』。17歳で高校中退してアナ−キ−のインディ−ズ・ム−ビ−「ノット・サティスファイド」を監督した『太田達也』。LUNA SEAのクリップ監督『大坪草次朗』。etc.、、、カメラ・クル−もすべて、自分がリスペクトしてきたスタッフでかためた。、、、、うぅ!何か、武者震いのするスタッフィングだ。もちろん、レコ−ド・メ−カ−の映像+デザインセクションのMAD大好き人間も、参加してくれるぅ!   
  まずは、絵コンテをメンバ−&スタッフに提示する。『THE MAD CAPSULE MARKET'S』のオ−ルツア−スタッフも積極的に参加してくれることに、なった。すべての楽曲ともメンバ−の絵は、進行中の全国TOURとリハ−サルの合間、オフの時間を削って撮るコトにした。TOURに同行する『MASA』には、各曲で必要なカットイメ−ジを伝え。他のスタッフには東京でのライブ・シュ−ティングを細かく伝えて、、、、さまざまな、アプロ−チで!狙ってもらった。今まで観たことないクリップ集へ!みんなで、向かおう!って!!、、、、、、、、
  『公園へあと少し』のヴィジョンだけ、その楽曲が生まれたLONDONの曇り空の下・公園をめざして、オレと『BRUNO DYAN』で3泊4日の、強行日程でシュ−ティングに向かった。せっかくLONDON行くんだから、すべてのモデル、スタッフ、機材も8mm FILMも現地調達。特にFILMはヨ−ロッパにしか流通してないもので撮影してドイツに現像出すことにした。モデルのセレクション、スタイリング、美術オ−ダ−もLONDONに着いて、HOTELチェックインする前に終え。機材をリ−スしたら、、もう!すぐ!夕暮れの公園でスナップシ−ンの撮影だ。明後日の軸になるモデル・シュ−ティングまで!ひたすら、LONDON中の公園を歩き回った。何度か、LONDONには来てるが、、、こんな、一日中かけて、、、広大で、のどかで、美しい自然の公園を歩き回ったことは、なかった。リ−ドから離れても、飼い主のとなりをクルクルとハシャギ回るフレンチ・ブルって、、、なんて、かわいんだ!って思ったし、、、なによりも、そこを訪れてるすべてが、天国にいるみてぇに、キラキラしてた!!!
  オレはその頃から、マンチェスタ−・ユナイティドのライアン・ギグスが大好きで、、、マンチェのグラウンド・コ−トを着てたんだけど、、、いろいろ、、見ず知らずの人から話かけられたりした。特に、オレと同じ歳くらいのやつから(みんな男ばっか、だけど、ね)。、、、特に宿泊してるホテルのベル・ボ−イなんて、、新聞まで広げて、、何やら!すっげースピ−ドと勢いで、毎日喋りかけられて、、、、理解するのに、かなり時間がかかったゼ。モデル・シュ−ティングも順調に進んだ!(モデルになってくれた彼女の母親のアイルランド人は、KENが監督する、この仕事は楽しいけど、マンチェはダイキラ〜イッ!!って。ほっとけっ!)
  何か、今までの旅行や、仕事で来た時とは、まるで印象も違って、、、なんか、、、サマ−タイムにゆっくりとLONDONに住みたくなった。(翌1995年には、無謀にも実際1カ月間!住んじゃうことに、なるんだけど、、ね、これがぁ!)。
  東京に戻ってすぐにオフライン編集室(仮編集室)で、オ−ル撮影スタッフが集合して、すべてのカメラのラッシュ(試写)をした。どの絵も監督ばかりが撮ったせいか、そのカメラワ−クとアングルに強烈な個性と!チカラ強さ!が溢れ出していた。みんな大満足だぁ!、、、で。『太田達也』がオレに簡単なオフライン編集(仮編集)機の使い方、ワ−クテ−プのレクチャ−をしてくれた。「じゃ!ケン!あとは存分に、このスタジオ泊まり込んでもイイから張切ってド−ゾッ!!!」ッてな、具合にオレ独りに、なっちゃった。「監督たちぃ〜寂しいよぅ!!」って言っても、始まらない。、、、、、オレが監督なんだから!!!、、、、、「よしッ!今日から映像編集にひたすらドップリつかってやるぅ!」って。その日から、納得できるまで、仮編集盤を続けた。ホント、飯を喰うのも忘れるくらいのイキオイ!と、エネルギ−だ。どんどん編集をしては、撮影スタッフに観に来てもらって、まずは、監督衆たちを唸らせようと、、頑張った。(オフライン編集機をブッ壊しかけるような、、これまた、、、無謀な編集やってみたり、VIDEO素材から逆回転とか、スクラッチして音素材を、つくったり、、)子供が、はじめてもらったオモチャをいじくるイメ−ジで、いつまでも、どこまでも、、、遊んだ。遊んだ。HaHaHaHaHa-
  『THE MAD CAPSULE MARKET'S』のメンバ−も、ちょくちょく顔を出してくれて、仮編集するオレにアイデアと意見をくれた。恒例であるLIVE終了後の打ち上げもしないで、オフライン編集室で晩御飯を食べて、、それから、仮編集に付き合ってくれたり、、、編集していく過程で必要になったカットのためだけに、『MASA』の家まで楽器かかえて、来てくれたり、、、とにかく彼らが、それまでのVIDEO CLIPでは表現できなかった『THE MAD CAPSULE MARKET'S』の映像作品の制作に燃えてくれた。あー、これこそ、純粋で素直なVIDEO CLIPの制作光景だ。監督衆たちも、なんか感じることがあったらしく、ホント仕事じゃなく、趣味や遊びに来る感覚で、楽曲が良くなるんならって、どんどん膨らんで、出てくる追加カット撮影を買って出てくれた。
  おかげで、大晦日も、その編集室で迎えた。『MASA』と、『MASA』の犬・マイカ。『諸沢利彦』監督と奥さんは、一升瓶とビ−ル、お正月といえば!雑煮をもってオフライン編集室まで来てくれた、、、、!!それくらい、のめり込むほど『THE MAD CAPSULE MARKET'S』のクリップ集の制作・編集の現場は、新しい表現方法を発見するドキュメンタリ−番組を観てるみたいに!!面白かったのだ!!!(苦笑)
  MA作業をようやく終え、『THE MAD CAPSULE MARKET'S』初のクリップ集『VIDEO』は完成した。すべてのクリップが、はっきりしたカラ−とアプロ−チをしていて、それでもって、、ゆるやかに、繋がって廻るイメ−ジ。、、、、なんとも文章には、、できません。
  こんな、達成感の大きな仕事は、多分今まで味わっッたコトが多分なかった、そう素直に思えた。1994to1995の年越しは、『VIDEO』『VIDEO』『VIDEO』『VIDEO』って、もうひとつのオレの可能性を見ることのできた素晴らしい時間だった。とにかく、よく動いた。震えた。たまに、映像の仕事ん時に、、、この、オレの映像表現の原点!を思い出してチカラにしてる。